更新日:2006/06/06(火) 23:13

上原地区

上原地区

 西表島北部に船浦、上原、中野、住吉、浦内の点在する五部落を一つの行政区とする上原地区がある。この五部落は、いずれも戦後新しくできた開拓移住地だが、昔はここに「上原村」があった。
 上原村の創設は古く寛延三年にさかのぼるのであるが、もともとこの地区は上原村の人とは別に、その北方に浮かぶ鳩間の人達も人頭税貢納のために水田を開拓させられていたもので、鳩間とのつながりは古い。古い上原村は、マラリアの猛威もあって人口は減少の一途を辿り、残っていた人達も安全な鳩間島に移り住むようになって廃村になったが、ここは有名な民謡「デンサー節」の発祥地としても知られている。
 現在の上原地区といえば、まず広大なパイン畑が印象的であり、パインの収穫で忙しくたち働いていた区長さんや、荷車いっぱいにパインを積んで、のっそりと歩いていた水牛の姿が目に浮かぶ。収穫したパインは、字中野において操業しているパイン工場に運ばれる。
 以前、西表産業株式会社の製糖工場が閉鎖されるまでは、換金作物としてキビを栽培しする農家も多かったが、今ではほとんどパイン一本に絞って、わずかばかりの水稲、養豚があるのみである。
 新しい話題として、船浦港を持つ同地区は、シーズンになるとピナイサーラやカンビレー観光の人々でにぎわいをみせることがあげられる。桟橋からピナイサーラ入口までサバニをチャーターすることもでき、又カンビレーや西表西部地区に行きたい人の為に、浦内までマイクロバスも出ている。東部地区の高那と船浦を結ぶ西表一周道路の建設も計画されており、それが実現すれば、上原地区は正に東部地区を結ぶ地区を結ぶ要衝の地となろう。
 字上原には、前記の「デンサー節」の碑の立つ上原公園や旅館等の施設があり、営林署もあるので、ぜひ立ち寄ってこれからの良き山行のための鋭気を養うのもまたいいものだ。

浦内橋

 戦後米軍の援助と地元の必死の努力によってマラリヤ病が撲滅されたので、八重山、砂糖きび、パイン作りに専念したが、産業道路及び良港がないため、せっかく作った農産物は消費地に運搬できず、島外へ出稼ぎする人々が続出したので、町当局は浦内川の架橋と白浜港の浚渫を陳情し続けた結果、1968年に施行され1970年3月に完成、全長272.1m、幅7mで沖縄における3番目の長橋である。橋の取り付け道路は3200mもある、橋ゲタの赤色塗料と周囲の緑、水の青と調和して雄大な景観である。

租納部落

 租納部落は西表島では東部地区の古見部落とならんで最も古い歴史を持つ部落で、行政的には星立と共に竹富町字西表に属している。西部海岸に位置し、白浜港より歩いて約1時間(5q)の距離にある。北西方は海に面し、南方は深く湾曲して仲良港となり、内離、外離島と連なり、湾内近くには、以前はサギのねぐらとして知られていたマルマポンサンと呼ばれる小さな島が静かに浮かんでいる。東南方には租納岳(292m)が聳え、ここより発する水源が租納一帯を潤して水田となっている。
 他の離島部落の例にもれず若い人の少ない老人と子供の静かな部落で、部落の人々の歯切れのよい快活な言葉(方言)が一風チグハグな気がする。7月〜8月のシーズンになると、帰省する学生、旅行者、キャンパー等が多く、一時期の活気を呈する。それでも以前は西表村役所も置かれ政治、文化、交通の中心地だったと文献に記されている。現在でも西表島ではおおきい部落の一つであり、西表小中学校を始め、営林署、保健所、本土派遣の医師のいる診療所、駐在所、郵便局などの施設、又ある程度の必需品は手に入れることのできる三軒の店がある。
 部落の北西にある石段を登ると小高い丘に出る。そこはウイムラーと呼ばれていた廃村で、スンバレー(現在の部落)と共に租納を形成していた。だが、岩盤の上にあるウイムラーは農耕も不適地であり、水の便も悪かったので、おおよそ40年前、現部落へと移動したのである。記比較的新しい廃村なので、家の土台石、石垣、石段、屋敷囲いのフク木などの跡がはっきり残っている。かって、幾人もの人が訪れたであろう拝殿が、風にさらされ、荒れほうだいになっているのが侘びしい。又海岸線に風葬洞窟が点在するのは何とも不気味である。
 租納部落の産業といえば農業、それも稲作一点張り。部落の水田は、民謡仲良節でうたわれている仲良川流域から、浦内川中流の稲葉に至るまで各地にあり唯一の収入源である。ツノマタ採集も、副業として8月〜9月にかけておこなわれ、大富〜白浜をつなぐ縦貫道路工事の人夫賃も部落の人々の生活を支える大事な収入となっている。
 租納部落は先にのべたように、古い歴史をもつので民謡や諸行事も多く、その中でも最も伝統的な行事の一つが10月の「節祭」である。これは豊年を祈願するもので3日間にわたって行なわれ、その中の一つアンガマ踊りは八重山でも類をみない独特なものらしい。
 観光客の為には約30名収容できる旅館がある。キャンパーにはよいサイト地はないが、公民館を提供してくれるであろう。

鳩離島とリュキュウキジバト

 西表島船浦湾の入口に、大小の岩礁が集まるようにして出来た、鳩離と呼ばれる小島がある。この島は干潮時に歩いて渡ることができるが、ここは個人所有地で(慶田城勇氏所有)上陸地点に無断立入り禁止の立札が立っている。この鳩離は無人島で、樹木が少なく殆んどススキで、そこには数百羽のリュウキュウキジバトが生息している。このハトはキジバトの亜種で西表ではたくさん見うけられる。これらのキジバトは日中は対岸の船浦あたりへ餌をあさりに行き、夕刻になると島へ帰って来る。上原地区を歩いているとよく鳩離の住家へ飛んで行く鳩、又飛んでくる鳩等をみかける。繁殖期になるとススキの株やチガヤの根もと等に精巧な巣を作り育雛する。
 我々が行った8月頃は、繁殖期を過ぎていた為かそれほど多くは見られなかった。ススキも殆ど枯れていた。前日鳩間で聞いた話によると今年(1971年)は数が少ないそうだが千ばつが影響しているのだろう。
 西表の山中でサイトした夜等、闇の中から聞こえる「ポーポー」という鳴き声やさしく心に響き、感傷的な気分になったものだ。

鳩間島

 石垣島から38.9q、西表島の北方5.6qの地点にある鳩間島は周囲3.5q、面積1.1キロ平方メートル島の中央部の景高地点でも33.8mという小島である。島の大部分は、労働人口不足と農業用水の不足から、休耕地として放置されている。河川はない。住民は1702年に黒島や西表東部の古見から移住してきたらしく、終戦当時は600余名であった人口が現在は65人、戸数16戸で島のあちこちに廃家がみられ、過疎化の現象はここではすでに過去のものとなっている。
 教育施設は小学校と中学校の併設で、小学生6人、中学生10人、教師6人である。高校へ進学するには石垣島や沖縄本島などへ進出するが、卒業しても島に就職口がないため島へ戻る者は殆どいない。学校のほかに郵便局、診療所がある。重病人が出ると石垣島へ運ぶ。電気は米国弁務官資金による発電機で各戸に送電しているが9時より0時までの制限送電である。しかし、近く冷凍機の設置にともない全面送電の予定とのこと。鳥に井戸はあるが、塩辛くて飲料に適さない。ただ友利御獄へ行く途中のインヌカー(鏡川)の水はのめるが水量がわずかなため、どこの家でも屋敷内に貯水タンクを設置している。カンバツのひどい時は西表島の船浦から水を運んできて給水するありさまだ。
 島の最高部は中森と呼ばれる丘で全面がクバでおおわれていて、中森にある真白いタイル張りの蓄電式自動無人炉台に緑が映えて端正な景物となっている。それに較べて西表島をのぞむと、雄大な緑の山々が一望できて雄大そのもの。周囲4qたらずの小島だが、御獄が4ケ所もあり、特に中森に登る途中にある島の創建にまつわる友利御獄には、数枚の銅鏡と珠などが神体としてまつられている。御獄の入口には瓦ぶきの六脚門があってそこから内は男性はもとより一般の女性でもツカサ(神職)以外のものは入ってはならないことになっている。
 島の産業はツノマタ採集とイカ漁を主体にしている。鳩間島はツノマタ採集において八重山一の生産地として知られており、イカ漁と並んで大きな収入源である。農業となると畑作面積は多い人で7反、平均3〜4反の畑を持っておりその作物はほとんど自給にあてられる。一部には西表島へ渡って水田耕作をやっているようだ。年中行事は農業と密接に関連しており2月の二月祭、6月の豊年祭、9月の結願祭などがある。
 鳩間島には、島の生産の歓びを謡いつつその反面には上原と船浦両村民の無慈悲に対する敵愾心を語った鳩間節がある。