更新日:2006/06/19(月) 23:29

眠り続けるか西南地域

 クイラ川と天然の良港、船浮湾の西側に広がる外離、内離島をも含めた西表島の西南地域は、200〜300m級の山々が全域にそびえ、山の傾斜がそのままの勢いで海に迫っているため、平坦部に乏しく、山野はかなり荒れている。かつて旧鹿ノ川、旧崎山、網取、船浮部落を結んでいた山道は、ツタやツルアダン、ススキ等が覆いかぶさり、獣道と判別がつけにくく、人の入りこむ隙を与えないかのように、わずかにその跡を残しているにすぎない。
 単調な海岸線をなす南岸の鹿ノ川湾を過ぎたあたりからパイミ崎までは、砂浜が全くなく、崖の大小様々な岩の連続した地形をなし岸に打ち寄せる波の音と沖の方から聞こえてくる海なりは恐怖そのものである。南岸の状況は、干満の差により著しく変化する。干潮時には2〜3の難所を除けば楽に歩くことができるが、満潮時になると切り立つ岩場と打ち寄せる荒波が、海岸沿いに進むのを困難にし、又やむをえず山手を進むにも、アダンやススキが密生して前進を阻み、かなりの時間と体力の消耗を考慮せねばならない。
 また南海岸にはマングローブの郡生する川が全くなく、30分〜l時間も歩かないと水場にもありつけないという有様である。それとは反対に、北海岸は砂浜にも恵まれ、波おだやかな遠浅をなし、南海岸の動に対する静の雰囲気が、自然のおりなす地形によってかもしだされている。
 北海岸には、南海岸では全く見られなかったマングローブ林が、河口付近に繁茂しているのに出くわす、その一帯は塩沼地のため、足を踏み込んだ途端、腰のあたりまでめり込む。炎天下そんな所を歩くと、地熱と足を移動させるエネルギーで、体力の消耗が甚だしい。特にクイラ川の河口からマングローブ林を抜け出るまでの行程は、地獄をさまよい歩いているようなものである。北海岸線には複雑な出入りが多く、沖縄最良の避難港、船浮湾や仲良湾に恵まれている。パイミ崎とウルチ崎とによって形成された崎山湾は、崎山村創立以前から脚光を浴び、崎山村を創立する条件の中にも、良好な港の件が上げられている。ウルチ崎と難所サバ崎との間には、船浮湾や仲良湾に優るとも劣らぬ網取湾が横たわり、そこに延々と続く白い砂浜は、人間の手が全く加えられてない純粋な西表の姿を残している。すでに廃村と化した旧網取部落と、絵のように美しい網取湾の組み合わせは、人去り、自然美は眠り続けるという西表の現実を如実に物語るものである。
 西表西南地域には、外離島、内離島、船浮湾、網取湾、他にも捨てがたい景勝地がたくさんある。これらを、現在伸びつつある開発の手によって、永遠の眠りの中に送りこまないように、その美しさを高く評価していきたいものである。西南地域の自然の美しさや、その本当の良さが認められるのは、いつのことだろうか。

南海岸

 ゴツゴツした岩場とわずかの砂浜とが連続する海岸線にじかに迫る山々、山の足下から沖へ広がるリーフ、南海岸は北海岸とは異質の厳しさを露呈する。その風景の美しさに惹かれてか、厳しさにもかかわらず、西南地域を一廻りしたあと南海岸を踏破して豊原へ出る者、又豊原から西南地域を目差す者、最近では南海岸から南風岸をアタックする者と、南海岸を訪れる者も少なくない。
南岸
 ここでは南海岸を行く場合の注意とか、リーフの歩き方、西南地域へ出た後のサバニのチャーターのことなどを記そう。
 南海岸線は岩場が多く、砂浜の奥行きも短いのでサイト可能な場所は限られている。水のある沢と割合広い砂浜があるのは、南海岸への登りである別れ浜と、その西方1時間程の所にある大浜である。南海岸には何ケ所かの水場があるが、ここでは前記の砂浜の他に2ケ所程を地図に示そう。海岸に出る岩の多い沢を調べてみると、少量だが水が流れて
いるところもあるので、どうしても必要な場合はそういった事を試みてみるのもいいだろう。
 南海岸は前記したように岩場がほとんどで非常に歩きにくい。そこで、リーフの上を歩く方法が考えられる。干潮を見計らってリーフ上を歩くわけだが、無数に群れるカニや熱帯魚が目を楽しませてくれるし、時間的にも大幅に短縮できる。但し、小休止などの場合は砂浜や岩場に上がって休まなければならず又、水場を見逃がしがちにあるので、リーフを歩く場合はそういうことを考慮に入れて、常に海岸線に気をつけながら歩くことが必要である。
 太陽がはるか西の水平線に沈み、きらめく星が哀愁を誘う南風岸の夜が訪れる。浜辺で火を焚きながら歌を歌い、海の幸に舌鼓を打つのも南風岸を訪れる者の特権であろう。だが夏の南風岸は、燃えるような太陽が容赦なく照りつけ、焼けるように暑い。
 サングラスにつばの広い帽子は必携なものである。又、このような暑さ厳しい中、岩場を歩くのは体力消耗も激しく日射病にかかる者もでてくるので、その方面の対策も万全を期してもらいたい。
 豊原からクイラ渡りまでの南海岸は、干潮時ならリーフを歩くことができ、満潮時でも岩場や砂浜を歩くことができるので、海岸線に沿ってずっと歩けば良い。時間は地図に示すことにする。
 さて問題は、クイラ渡りを通り鹿ノ川洞窟までのコースであるが、そのコースは”クイラ渡り”の項を参照してもらいたい。クイラ渡りより3時間で鹿ノ川洞窟に着くことができる。西南地域より白浜へ渡る場合のサバニのチャーターは、豊原を出発する前に白浜へ連絡しておけばよかろう。

南岸の王者「南風岸」

大原−豊原−南岸(別れ浜)−南風岸

 西表東部で最も大きい部落、東部の玄関である大原を出発し、左右にキビ畑を見ながら30分、西へと足を進めているうちに、豊原に着く。途中右手にキビ産業になくてはならない分密糖工場がある。
 豊原で冷たいコーラを飲み、一休みし、豊原部落のにあるパイン集積所をすぎ、45分の行程で南岸の浜に出ることができる。これから先は人泣かせの場所で、砂浜、岩場の連続である。夏は、太陽の照りつけるのがにくらしく、直射、反射の熱で、日射病にかかりやすいので、夏にここを行動する方はつばの広い帽子を利用したほうがよい。それからサングラスも。
 南風岸への登り口は、これより先の通称「別れ浜」にある。干潮時は、リーフ上を歩いた方が楽で、時間も短縮できるが、休息のたびに浜に上がらなければならないし、南風岸入口を見失うおそれがあるので、もしリーフを歩く場合は、そういうことを十分考慮してほしい。
 海岸線を、砂に足をとられ、岩場に悩まされながら歩くこと1時間30分、(リーフを歩く場合30分程時間を短縮できる)別れ浜に着く。浜の左端(海より浜に向って)の岩場から出て来る沢が、南風岸への入口である。沢の入口の岩に、白いペンキで”南風岸へ”の目印が付けられており、注意すれば、見逃すことはまずないだろう。
 南岸は、山が急勾配で海に迫っている為、南風岸は、はるか彼方のリーフまで足を運ばなければ、おがむことはできない。といっても、わずかに南岸のヤセ屋根がみえるだけである。
 そういうわけで、南風岸入口の目印は、見落としてはならない、大切なものである。
 南岸から南風岸までは、急勾配は勿論のこと道らしき道はなく、コンパスと地図を頼りに進んで行く。山中は、ツタとかシダのからみつくようなことはなく、比較的容易に歩くことができる。
 RUWVの道標が、ポイント、ポイントに、また、黄色や赤の布切れ、白ペンキ、ナタ目などが、3〜7m間隔につけられており目印を見落とさない限り方向を見失うことはないであろう。2時間15分後には、頂上の三角点を見ることができる。
 さてこれから、順をおって、要所要所を紹介しよう。
 入口の道標から10分程沢を登る。つるつる滑ったり、水たまりがあったり、大きな岩がゆく手をはばむ。その周囲をまきながら進むと、第1番目の道標が目につく。右手の急坂を30m程木の根をつかまりながら登ると、尾根に出る。この尾根は急勾配のため土が流され、溝のようなものができ、道らしき感を与える。落葉の上をツルツル、ガサガサ、5分で第3の道標(南風岸へ2時間)のある5m四方の小さな広場に出る。道標の掛かる大きな木に登り、南下方を見やると、南岸のリーフが青々としているのが眼下に広がってみえる。
 北東の方向には木の間を縫って、約300mの高さに、岩肌がむき出しになっているのが見える。それをめざして進む。途中、木の根が巨大の岩の一対になってできたアーチを見る。目印の布切れを辿って歩くと、50分で「お休み所」と書かれた道標を見る。木に登ると、待望の南風岸が初めて顔をだすが、ここから、直接、南風岸へアタックしては、西側の岩壁にはばまれて、登ることは困難であるから、東北東のヤセ尾根をめざして進み尾根へ登るのが良策である。尾根は竹が生え、ツルアダンがからまり歩きにくいが、時々視界が開け、南岸の山々を見おろすことができ、どちらかというと、頂上より視界がきく。さらに尾根を登りつめれば、頂上である。
 頂上は平になっているが、一面木や竹が繁り、そのままでは見晴しが悪い。そこで、そこいらのちょっとした木に登り、あたりを見渡すと南岸の山々が、まるでめしつかいのように、はるか下方でひざまずいているのが見える。まさに王者の貫禄そのもので、南岸に君臨しているわけである。更に東に豊原、北東に古見岳、豊原の後方海を隔ててその向こうに黒島、新城島の島々を見ることができる。その反対の西側に目をやると、鹿ノ川湾、舟浮港、白浜林道等が見え、又クイラ川の全貌を見ることができる。はるか西方に、海鳥の多いことで知られる中の御神島が、ポッカリと空に浮かんでいるような様は、まさに絶景だといえるだろう。特に、南岸一帯の地形が、手に取る様にわかるのがいい。そうとう重量のあるザックを背負って登るのは、困難であろうが、一泊程度の装備なら、そう問題ではない。図にもあるように頂上平坦部の中程を小さな川が流れ、たまり水がある。干ばつのせいで、水量が少なく、枯葉の色をしていたが、使用できないことはない。
 頂上の東側と西側は、絶壁になっており、登るのはかなり困難であるので、南風岸へ登る場合は、そこをさけた方がよかろう。南岸から登る場合は、南側の尾根を登るべきであり、仲間川上流から来る場合は、北北西の方向にあるなだらかな尾根を登る方がよい。

海ガメと陽気な漁師の南岸

 ”西表島南岸”そこは海の美しさでは、沖縄でも5指の中に入るのではないだろうか。海岸線まで迫り来た緑の山々、南岸の名物岩場の中に存在する白い砂浜、そしてコバルトブルーの海、それらがみごとに調和した様は、まさに絶景である。
 ジリジリと照りつける太陽の下、足をとる砂浜、行く手を阻む岩場など、南岸の自然はそこを行く人にとって辛く厳しいものである。だが、水平線の彼方に太陽の沈む頃、南風岸などの山々から流れでる冷たく甘い水や、やさしく微笑みかけるような潮騒は存分に旅の疲れをいやしてくれる。
 輝く星空の下、ナサマムドウルーの伝説の舞台となった”わかれ浜”でその悲恋の物語を語り合うのも又、風流である。
 風光明媚なばかりでなく、南岸は豊かな漁場でもある。岩場のカニの群、リーフ上のえび、うつぼ、海ガメの卵、群をなして泳ぎ回る熱帯魚・・・・・。数え上げればきりのない海の幸が、眠っている。夕暮れの岩場に腰をおろし、つり糸を垂れるのも又、楽しからずやである。
 近くの豊原などの部落から、畑仕事の合い間合い間に、ここ南岸の海の幸を求めてやってくるセミプロの漁師の姿が跡を絶たない。彼等セミプロの漁師は陽気である。底ぬけに陽気である。真黒に陽やけした体に汗にまみれたランニングシャツとサルマタ、そしてバサバサの頭に巻いたタオル・・・・・こういうスタイルは彼等漁師だけのものである。彼等はセミプロらしく、気楽に漁をやり、豊原などの近くの部落にかなりの安価で漁類を売り出しているらしい。ときには、気前よく我々にその一部を提供してくれる。南岸でサイトすれば必ずや海の幸にありづけるだろう。
 次に述べる海ガメについても、彼等セミプロの影響によるところが大きい。
 南岸の砂浜を歩くと、ときに海ガメの産卵跡にぶつかることがあるが、大方それを発見するや否や、そこを掘り起こして卵にありつこうということになる。しかし、どこをどう掘れば良いかわからない。海ガメという動物はなかなか利口にできているらしく、楕円状に直径1mの範囲で産卵跡はあるが、実際に卵のあるところは、その中の半径10pぐらいの広さである。素人が掘り出すとなれば、多分相当の時間を要するであろう。しかし、彼らはそれを10分足らずで掘り出すことができる。掘り出した卵の数の多いのには、誰しもびっくりするだろう。軽く100個はある。形も色も大きさも、ピンポン玉に似ており、弾力性に富んでおり、落としても容易にわれない。
 このように西表南岸の自然の雄大さには、実に感嘆せざるを得ない。”厳しさの中にやさしさを秘めた南岸”あるいは”海ガメと陽気な漁師の南岸”・・・自然と人間の語りが南岸を舞台に演じられているように思われる。ちなみに、南岸の砂浜には、有名な星砂がある。

豊原部落

 大きな図体をまだるっこそうに動かし、草をはむ水牛。正月のかがみ餅ほどもあるでっかい糞を遠慮会釈なく落としながら、道の中央をのんびりと進む牛車。西表ならではののどかな光景に浸りながら、モクマオウ並木のなだらかな坂道を過ぎると、だだっ広い南の海とは対照的に、戸数33戸、人口210人の小さな部落豊原に着く。西表の表玄関大原より歩いて30分、南海岸に面する唯一の部落である。
 ジリジリと焼けつく太陽、はてしなく続く岩場、足をとる砂浜に悩まされ、おぼろな頭にちらつくのは南海岸の終点、豊原であり、西部地域から来る者にとって、やっと歩きとおした南海岸を振り返る思い出の場所である。またここを振り出しに南海岸へ挑む者には、激しいファイトを湧き立たせるところであり、最後の買い出しのできるところである。部落にある二軒の売店は小さなものであるが、買い出しの不備を補うには都合がよい。
 現在、豊原部落は大原区に含まれており、公民館があるだけで、学校、旅館その他の施設はなく、子ども達は大原まで通わなければいけないが、車なら5分程で行くことができ、不便とはいえないようだ。殖
 今では、南海岸唯一の部落であるが、遠い昔にさかのぼってみると、西部の鹿ノ川村と並んで、この地にも南風見村があった。1734年、首里王朝が波照間から400人を強制移住させ新村を創設したのであるが、その移住が一方的であった為と、住民の経済的、社会的福祉を無視し、さらに疫病マラリヤに襲われた為、1920年に人々はこの地をすてて廃村となった。しかし終戦を契機とした失業者人口収容の動きにより、地元八重山を初め遠くは久米島、伊江島などからこの地に夢を求めて入殖し、「豊かなる村を」と希望を託して、現在の豊原部落が生まれた。だが南国のギャング台風は、入殖後間もなく生活基盤のできあがらない部落を襲い、第一次食糧のイモを失ない、生活の見透しを断たれた住民は途方にくれた。このような苦境の中で政府の援助を受けて立ち上がり、見事5ケ年で農業の基盤はできあがった。途中の困難は並大抵のものではなかったであろう。マラリヤを背負って畑へ出かけ熱がでると家へ帰ったと話す住民のことばには、当時の苦労がしみじみと感ぜられる。大原との境界といわれる宜野座ラインは、当時大原との農地問題のゴタゴタが生んだものとして残っている。
 ここはいろいろな地域からの寄り合いでできた部落である為、正月、先祖の供養の他には伝統的行事はなく、入殖記念日、敬老会、農饒祝賀会などのささやかなお祭りが、行なわれるだけである。住民の主な収入源はサトウキビ、パインを二本柱とする農業であるが、ときたま農業の合間をぬって漁に出る者もいるという。漁をするには南海岸は絶好の場所であり、白く広がる砂浜には、ときたま海ガメの産卵跡が見られる。
 豊原での見所といえば、なんといっても浜辺に出て見る南海岸の絶景であるが、この夏、早稲田大学の探険部により洞窟が発見され、人々の注目を集めているのも最近の話題である。

海の幸

 西表島、この島の魅力はなんといっても、原始のネコ”イリオモテヤマネコ”が発見されるなど、原始そのままの姿が残っているという事である。動物、植物が原始のまま残っているのと同様に、海もまた原始のまま残っている。 〜 mも続く岩礁に囲まれている西表島は、魚、貝類の宝庫であるといえる。
 魚類には、あおぶだい、ふえだい、くろだい、きんせんふえだい、むすじこしょうだい、ハタ類(これは方言でミーバイと言われている)めじな、ひいらぎ(ガーラ)かのこうお、ことひきetc、これらは主にサンゴ礁の中におり、昼行動するもの、夜行動するものとまちまちである。リーフ内だと、ことひき(あいご=エーグァー)が主で、たまに、むすじこしょうだい、きんせんふえだい等が釣れる。砂浜に寝そべっているだけで、みそしる用になる小魚が2、3時間で釣れるのだから、まさに、宝庫である。その他のハタ類・タイ類になるとリーフの端から大海に糸を投げ込まねば容易に釣れるものではない。ひめじやこ、ひれじゃこのシヤコ貝類、おきにし、ひろくちいか、やまいし、しらくもかい、ふとすじあまがいなど、それに、タイワンガサミ、ノコギリガサミ等のガサミ類やヤシガニ、小ダコも西表の近海ではとれる。
 シャコ貝のたぐいは、北部海岸ではとってくれと手まねきでもしているように小さいのから大きいのまで(大きいのになるとl〜2sはある)口をあんぐり聞けている。これを酢の物にした時のうまさは何とも言えない。料理屋で食べる酢の物なんて新鮮さの点で比較にならない。他の小さな貝類はリーフ上をうろちょろしておれば容易にみつけられるが、カイ類、魚類にもましてうまいカニ類は簡単に取れるものではない。たまたま干潮時にマングローブ林を歩いているとみつかるノコギリガザミは2〜3sと大きく、食用としてはバツグンであるが、その肉にありつけるのは希である。タイワンガザミは、海水を好むが、その他のガザミ類は、海水と淡水とが合流する河口などに多く見られ、一般に浦内、仲間、クイラ川などの河口は、カニを取るのに絶好の場所といえる。カニを取る道具は石垣で釣糸を買うついでに購入するとよい。取る時は、魚の頭などのえさをつけ、投げ込むとよい。道具の高かったことも、食う頃になるとすっかり忘れてしまだろう。
 ヤシガニであるが、これは夜によく海岸近くのアダン林の中に居る、ヤシガニは指を切るほどの力をもち、捕える時など一苦労する。ヤシガニには、毒性のものと、そうでないものがいるので、食べる時は充分な注意を払ってもらいたい。アリのたかるヤシガニは食べられるといわれるが、どうもこれといった決めてはないようだ。その他にトビハゼやフグの中にも、毒を持ったのがいるので注意を要する。