更新日:2006/06/19(月) 22:36

第一山小屋から星立へ

第一山小屋→第二山小屋→カンビレー

 第一山小屋の傍らを浦内川の本流が静かに流れている。山小屋の西方、川向こうには、緑がはがされ急勾配の山道が見える。この急な坂道を登るのであるが、距離にすると約50mしかないから尻込みすることもない。坂を登りつめると割合平坦な道が行手につづいている。浦内川を左手にみながら軍艦岩までは一本道を進むのである。
 第一山小屋から3q(約1時間)歩いた頃パッと視界が広がる。川に出たのだ。この川は浦内川の大支流で用幅も水量もかなりあり、10m下方を流れる本流と直角にぶつかっている。この様がT字に似ているので我々はT字川と呼んでいるが、本称はイタジキ川である。普段岩板の上を山靴のまま渡るのが可能であるが、岩は長年に渡り、水に浸されて滑りやすくなっているので足をとられないように注意すること。又、浦内川の中でも水かさの変化が急激な場所があるで、渡る時は天気、水量を十分考慮した上で渡ると良い。
 T字川を横切り本流沿いに100m程歩くと、すぐ右は木々におおわれて山道が続いている。この山道を約1.1q(約15分)歩くと、再び浦内川の大きな支流に出る。支流の向こう岸には第二山小屋(カンナバラ小屋)が見える。ここも営林署によって建てられたもので、10m人程度なら軽く収容でき、西表島横断の中継地としてよくキャンパー達に利用される。小屋の傍らを流れる浦内川の河原は広大でまわりを包む景色もすばらしく、広い露天風呂にもなる。目の前を往来する大小のエビの群は、夕食に華を添え、西表島ならではの気分を味わえること請け合いである。
 カンビレーヘは、小屋から2.4q(約45分)山道は幾数の起伏や平坦路に加え、丸木橋が所々に架けられている。涸沢も幾つかあるが、雨が降るとたちまちの内に水かさを増すので、軽視してはならない。
 小屋から約35分で左に浦内川へ下る道がある。ここを下って浦内川の岩床に出て歩く。約10分で左手にカンビレーが、その雄々しい姿をみせてくれる。(カンビレーについては後述す)

カンビレー

 浦内川の上流に西表島の雄原境といわれるカンビレーがある。幾段にも連なる階段状の河床を白い水しぶきをたてながら流ちように、時には力強く流れている。川の右岸は、黒褐色の楓状の岩が、数百mも上流までのび、太陽光線を受けてにぶい光沢を放っている。
 カンビレーという名の由来は「神ピライ」から来たもので、カンビレーで8百万の神共が集会を催し神の交際、つまり神交際をされた所だと古老は伝えている。この「神ピライ」の霊所には、神日撰の日(十二支の甲、寅、午、酉の日)に一般人が行くことは厳禁されていてその日に行くと、神罰によって「水鯖」と称する怪魚が飛出し暴れるため大音響を立てて周囲の山々にこだまするので度肝を抜かれ、恐怖に襲われ、家に帰って病気して死亡する者が多かったようで、よく古老は一般人に注意を与えている。といわれるようにカンビレーは神秘的でもあり、その壮麗な景色はまさに神ピライの場所として誰しもうなずけるものである。

マリユドの滝

 カンビレーから約500m下流にマリユドの滝がある。落差は約20m(二段に分かれている)だが、滝幅は沖縄の滝中最も広く、豊富な水量が滝幅一ぱいに広がり「ドドドドッ」という激しい音とともに一斉に滝壷へ流れ落ちる様は、ナイヤガラの滝の縮小版ともいわれるほど壮快である。
 マリユドの滝と呼ばれるのは、その滝壷が常に淀んでいるのを「丸淀」と称したためで、直径約40mのこの暗緑色の丸い淀みには壮麗さとともに底一知れぬ不気味さを感じさせられる。
 滝壷のふちに腰かけ、広い滝壷や、うっそうたる緑のジャングルを目前にしながら、激しく落ちる滝の響きをきき、命の洗濯をするのもいいだろう。
 マリユドにはキャンパーのほか、浦内川を小さなポンポン船で軍艦岩まで乗りつけそのあとは、徒歩で30分(2q)で簡単にマリユドの滝へ辿り着けることから、親子連れなどのハイカーが最近めだって多い。
 マングローブ林、原生林、稲葉廃村跡等々を両岸に、浦内川をポンポン船の音も高らかに軍艦岩へ、そして30分間道を歩いてマリユドやカンビレーへ・・・。これが充分余裕のある日帰りコースなのだから、殺到する人も多くなり、まして休暇ともなれば、マリユドの滝やカンビレーの激しい水の響きに混じって、人々の驚嘆の声や笑い声が聞こえる。
 ”カンピレー、マリユドの滝を見ずして西表島を語るな”どこかで聞いたような言葉だが、それほど、雄原境カンビレー、マリユドの滝は西表島を語るに必要不可欠なものである。

カンビレー→マリユドの滝→軍艦岩

 カンビレーを後にして約500m行くと分岐点にさしかかる。左手を行くとマリユドの滝へ続いており、「一秒でも早くマリユドを」と思う人は左へ駆け降りるとすぐにも滝に逢える。右の道を100m程行くと、左に下る道があり、これもマリユドの滝へと続いている。軍艦岩方面からだと、この道を下ってマリユドの滝へ行く。
 軍艦岩までは、幾重にも曲がりくねった道が続く。浦内川の響きを聞き、周囲の原生林を眺め、ピクニック気分に浸りながら歩こう。約2q(約40分)で軍艦岩に到着する。川の右岸に沿う山道もここが終着で、この後は対岸を歩かねばならない。渡岸は、軍艦岩は約50m上方に営林署が建てた指標より始め、足元に注意しながら岩伝いに歩くのだが、足を滑らして水中へドボンという事もあるから慎重に。所々、コンクリートで足下を固めてあるからそこを歩くと良い。対岸の目標は、約10m上流の指標にすると安全である。

軍艦岩

 浦内川を河口から8qもさかのぼると、舟着場となっている軍艦岩に着く。ここはマリユドの滝やカンビレーのコースの玄関で、休暇になると日帰りの人々の数が絶えない。軍艦岩から上流の方は、川というより大渓谷で、巨石が競うように居座り、その間隙を縫って流れる水には、浦内川ならではの凄味がある。
大原から星立て時間表
 大正11年頃、船浮港に駆逐艦「たで」が入港した際、当時の西表西部地区の人々は、クリ舟を漕いで見学に行った。この舟着場の岩が、ちようど軍艦の横腹に似ていたので、誰言うともなくこの岩を「軍艦岩」と呼ぶようになり、50年経た今日までその名が続いている。
 軍艦岩は以前、断崖絶壁の下にあったが、昭和8年の台風で、岩と絶壁の間の土が流され、現在のような離れ岩になったといわれる。岩の高さは、平常時の水面から2m足らずである。
 陸路でマリユドの滝やカンビレーヘ行く場合、または東部からカンビレー、マリユドの滝を経て祖納へ至る時は、浦内川を横切る必要がある。軍艦岩の上方50m程の所が渡り場で、渡岸地点には、営林署のたてた指標があるので、確認してから渡ってほしい。ここは、巨岩や石が乱雑にころがっていて、その岩の上を跳び跳び対岸へ渡るわけだが、焦らず、騒がず、一歩ずつ、足場をちゃんと確かめながら進まないといけない。岩は丸味を帯び滑りやすい状態にあるから、下手すると岩と岩との間に滑り落ちてしまう。岩と岩の間をぶつかりながら流れてきたので、水流はかなり速く、水深もあるので這い上がるまで全身ずぶぬれになり、危ない。くどいようだがくれぐれも注意して渡って欲しい。
 対岸に向かって直進するのではなく、浅く、しっかりした所を選んで歩く方がより安全である。ここの渡岸の際最も大切なことは、「雨が三粒降ったら川を渡るな」という地元の人達の戒めの言葉でもわかるように、雨には充分注意をはらうことである。浦内川上流の幾つかの支流、その支流の孫支流。幾つもの流れが鉄砲水となってドッと流れ込むので、大雨でなくとも非常な早さで水かさが増し、危険な状態になることが多々ある。付言するなら、渡り場の岩が3分の1以上頭を隠していたら、どんなに山歩きに自信があっても、渡岸を試みてはいけない。
 軍艦岩の上に墓標が立っているが、この渡り場で、本土学生2人が遭難して、命を奪われた時のものである。この墓標を見ると、うかつには渡れないなと痛感するだろう。自然は人々を慰め心を安らかにするが、時には、実に無惨な仕打ちを人々に与えることを、心に刻み込んでもらいたい。

軍艦岩→稲葉廃村跡→星立

 渡岸後は、ツルアダンやオニヘゴなどの枝葉におおわれた道が続く。1.5q(約20分)行くと丸木橋に出る。巾1mで長さが40mもある細長いいかだ状の丸木橋で、ヤジビラ桟橋と呼ばれる。
 ヤジビラ桟橋を始め、西表島横断で出会う幾つかの丸木橋は、営林署の巡視歩道に属しており、一年に一度修繕されるが、雨が多いせいか、一年ももたず朽ちてしまう。渡る時に足を踏み外すおそれもあるので集団時は人と人の間隔を、ある程度保つのが賢明な方法である。「時間に余裕があれば海水浴ならぬ川水浴をするのもおつなものであらが、深さや川巾もかなりあり、真水なので泳ぎ難く、誰でもという訳にはいかない。」
 ヤジビラ桟橋を渡るとすぐヤジビラ川の小渓流があり、こけむした岩上を渡り、又森林地帯に入る。左側には旧稲葉炭抗跡があるが、木が密生しているため判別できない。森林を抜けると視界がひらけ、丸木橋にでる。橋が崩れている場合は、干潮時でもひざの上までつからないと歩けない。
 ここから先は、右手にずっと浦内川を臨み、左にはメーバラ、ウボド、シンタマ、シマドと田んぼが続く。緑の波ともいえる1mの茅が、風にサワサワと快い音を立てている中に、水牛の黒い姿があちこちに見える。
 軍艦岩から2.2q(約30分)の所に、ワイヤー製の約10mのグラグラ動くつり橋があり、橋を渡るとすぐ稲葉の部落跡である。3軒の家が倉庫や物置として残され、家の前にはミカンやバンジローの木があり、かすかに人のくらしの匂いを残している。
 シマド田の終点近くには、浦内川の中でも最も大きなカーブがみえる。カーブを過ぎ、ナタ山を尾根沿いに歩く。道巾も約3mと広くなり歩き易い。途中、ナタ山項上への入り口が左側にある。歩を進めると星立の部落が見下ろせる。数十本のヤエヤマヤシに抱えられたように、部落は小さくまとまり、異郷を見たような感を覚える。やがて道は下りにかかり田んぼ道へと入って行く。
 田んぼ道を出ると大きな分岐点にでる。右へいくと浦内橋、左へ約1.5qいくと星立部落である。
 これで大原から出発し、星立入口までの西表島横断を走破したのである。

ヤエヤマヤシの里・星立部落

 星立部落は、隣接する祖納部落と共に西表西部地区では、歴史の古い部落である。
 名称は「干立」、「星立」と混用されているが、かって干立と称していたのを大正13年星立と改めたためである。
 終戦後の一時期に最高の80戸をマークした世帯数は、沖縄本島や石垣市への転出が相次ぎ、現在では世帯数29戸に減少し、人口も140人と減った。
 昼夜ともに静寂に包まれ、空家が非常に目に着く。部落内には雑貨商店が三軒。郵便局と、薬局を兼ねた店一軒がある。四軒ともお粗末で品種は少なく、物価は船賃がかさみ本島に較べ高い。医療施設や教育施設などの公共施設は全く無く、公民館だけがコンクリート建ての真新しい姿で、荒廃しつつある周囲の家々と不似合いにどっしり構えている。
 部落の見所は、周囲の自然である。北西側にそびえる数本のヤエヤマヤシの群れを筆頭に、部落後方の道沿いには広大なヒルギ林(この中には天然記念物のオヒルギやミミモチシダも自生している)。西海岸沿いには部落の人達に五本松と呼ばれている、抜群の見晴らし台かつ昼寝場所になる小高い丘もあり、部落に色どりをそえている。
 星立の唯一の収入源は稲作である。全戸数29戸のうち、23戸までが稲作農家である。1戸当りの畑は1反も持てば良い方だが、田は1戸当り約1町5反で祖納よりも大きい。年間生産高約12万sの米は全て石垣島に送られていたが、71年より沖縄本島への出荷が始まった。
 以前は稲作のほかパインやサトウキビを栽培したが、上原地区のパイン工場や石垣島の製糖工場への出荷が、浦内川の架橋がされてなかった事や石垣への船便が不安定のために延び、商品管理が出来ずに必然的に稲作一本に限定されてきたのである。
 浦内橋も架橋され、1972年の本土復帰とともに船便の充実も図られるであろう今日、パインやサトウキビ栽培の復活による増収の道も開ける。それに加えて畜産、柑橘類栽培も注目されており、現在ヤエヤマヤシの後方で約2〜3町歩を開墾して柑橘類栽培を試みている。
 西表島を訪れる人々が上昇気流に乗りつつある現在、横断もしくは、マリユド、カンビレーへの陸路及び水路の一拠点となる星立部落。
 西表島の自然開発に伴う星立の発展を望みたい反面、産業開発の問題も蔑視する事はできない。
 いずれにしろ星立の前進を促すものであってほしい。

星立のヤエヤマヤシ

 星立のヤエヤマヤシは1959年12月16日に天然記念物に指定された。
 以前、約百本あったヤエヤマヤシは、若い葉心が食用となるため採取されて枯死するのが多く年々減少の途を辿り現在は20本余になり、営林署がこれ以上減少しないよう管理している。
 沖縄でもヤエヤマヤシは八重山群島にしか無いから珍しく貴重でもある。由来については数説あるが、明和の大津波の際に南方の某島より実が流れ着いて自生したものであるという説が有力である。
 青空に高く浮き出たようにそびえるヤエヤマヤシの群。前方に広がる緑の草地。その中に腰をすえた水牛の黒い姿。小じんまりした星立の家々。これらが完全に調和し、実に壮観である。訪れる人々で驚嘆の声をあげない者は居ないだろう。