更新日:2006/06/19(月) 23:16

迷路波照間森

波照間森→カンビレー

 御座岳〜カンビレーコースということになっているが、はっきりした道はないので、楽にカンビレーに行きたい方には別のコースを勧める。近く、大富〜白浜間の縦貫道路が完成したらカンビレーヘのコースもあるいはできるかもしれないが、現在のところ確かな道はない。しかし、どうしても御座岳よりカンビレーに降りたいという方のために説明しよう。
 御座岳からハテルマ森への分岐点までは、大富→御座岳→白浜コースに述べられているので、それを参考にしてもらってここでは省くことにする。
波照間森から浦内川
 稲葉への分岐点(つまりハテルマ森、カンビレーヘの道のこと)から右へ100m程行くと、さっそくヤブコギが始まり、いくつもの道が入り乱れ、まさに”迷路波照間森”の異名にふさわしいコースである。ここからは地図、コンパスとのにらめっこが続く。コンパスを頼りにテドウ山やA地点(図参照)を目標にして、絶えず尾根づたいに歩くことが大切である。最短コースだからとだからといって沢下りしがちだが、ザイルを使わなければ降りられないような崖が多く、危険である。又途中、木に赤いペンキが塗られているが、あまり信用できるものではない。たえず木に登り、現在地点を確認することである。しかし、おもしろいことに木に登るたびに前の確認地点が違ってくるのである。これは同じ高さの山や、山容の似かよった山が多く、これといった特徴のある山がないためである。
 A地点まで来ることができたら、しめたものである。A地点より浦内川へ注ぐ支流との合流点(図のB地点)まで、ちゃんとした道が尾根づたいに走っている。時間にしても約30分である。そこから約15分上流がマリユドの滝である。
 波照間森の項上一帯は、ほとんどツルアダンに覆われており、行動中にザックや足にからみつき行く手をはばむ。その執念深さは人をイライラさせ、かんしやくをおこすことがしばしばだが、そんな時に限ってかえって巻き付いてくるようである。短気は損気。木にはらをたてたってどうなるものでもない。あせらず余裕をもって行きたいものである。

波照間森の伝説

 西表島のほぼ中央部に、他の山よりやや高く標高447mの伝説のある山がある。これが波照間森である。
 人頭税時代、上納米をふやすため、また肥沃な土地開拓と、人口調節の見地から、各方面の離島より強制移民を断行した。波照間島も例外ではなかった。両親や恋人から引き裂かれ泣き泣き船に乗せられた。人々は移民地に着いても身が入らず、何をしても中途半端であった。農業だけでは生活が成り立たず狩猟もしなければならなかった。そこで彼らは山に出かけ、はるか南方の波照間島を見下ろしてはなつかしむ。ああ、我が生まれ島よ。母の顔が、恋人の姿が雲に映っているようだ、涙が出て島も見えなくなる。
 こうして嘆き悲しんだところが波照間森だということである。

西部地域の表玄関

白浜

 外離と内離島によって包まれた仲良湾は波静かな入江をなし、女性的なおだやかさをみせている。その中に突き出た白浜港は名実共に西部地域の表玄関であり、風格もまた、その名に恥じないものをもっている。
 石垣港を出港した幸八丸は西表島北海岸を左にみながら、3時間20〜30分で、西表最大の白浜港へ船体を横たえる。
 1968年に2〜3千トンの大型船が楽々と接岸できる白浜港は完成し、白浜が一躍西部地域の中心として注目を集め、祖納、星立、上原地区に通ずる基点となっている。現在、大富から進められている縦貫道路工事も、白浜に至ることになっており、東部と西部を結ぶ、重要な役割を果たすものと期待が寄せられている。
 人口285人、世帯数90余世帯の白浜は、戦前炭坑に付随してできた部落である。西部地域は琉球列島では、唯一の炭田地帯で「西表炭坑」の名前は広く知られている。中でも、この白浜部落と目と鼻の先にある内離島をも含めたこの一帯は炭坑地帯の中心地だった。付近の海岸にはまだ、石炭のグズが散らばって、昔のおもかげを残している。
 港から白浜小学校に延びる白浜のメインストリート沿いには、旅館1軒、商店2軒、氷屋1軒、食堂1軒が並んでおり、祖納に至る三又路には駐在所があり、西部地域一帯の治安に大きく貢献している。
 現在、白浜に住んでいる人々の大部分は戦前、沖縄本島、宮古、地元の自由移民と、戦後の炭坑の残留組や米軍の琉球マツ伐採工事等で入って来た人が多い。そのため「一人ひとりが全く他人なんですよ。」と住民は口をすぼめながら静かにつぶやいた。そこには寄り集まりの悲しみがこめられており、村を出ていく者にも、声をかけてくれる人がないという心寂しさが感じられた。
 現在、白浜は、石炭にかわってパルプの町として生まれかわった。十条製紙(熊本八代)の子会社である八重山開発KKが1960年に進出してから、白浜部落は部落ぐるみで同社に依存して生きざるを得なくなった。白浜部落の約90%が同社の労賃によって生活を支えていることからもその依存度がわかろう。また、白浜には、パルプのほかに季節的な収入として、ツノマタ採取とイカツリがある。漁業権を守るために、西表漁協を結成しており、組合員が約70人。普段はパルプ切り出しに山へ入っているが8月のツノマタ採取、9月のイカツリにかけて、ほとんど海へ入っていく。
 白浜をとり巻く自然が、自浜を西部地域の表玄関にしたてあげ、天然の良港「仲良、船浮両湾」をひかえた地として飛躍的に発展するものと期待されている。

ツノマタ採取

 ツノマタは、紅藻類、スギノリ科の海藻で、各地の潮境あるいは深所の岩に群生し、形はいろいろであるが普通は基部がくさび状で細く草質で厚い偏平体をなし、上部になって数回分岐し、全体は扇形になっている。長さは数センチ、時には十数センチとなり、先端は舌状あるいは多少とがっている。色は紫紅色から緑色等いろいろある。
 ツノマタ採取は毎年8月1日の解禁日をまって活発となり、向こう1ヶ月間続く。そのあとひき続きおこなわれるイカづりと並んで、住民の季節的な収入源となる。ツノマタ採取の考節になると、白浜、上原地区、鳩間、船浮、その他西表の北西部地区の港にツノマタが干され、港へ着くと潮風にのってプーンと海草独特の匂いが鼻をつく。
 その時期になると、八重山開発KKや畑仕事の働き手がかなり減るほどに、各地区の男達は競って海へ出て行く。まっ黒に日焼けした男達は夕方まで海に潜り続けてツノマタ採取に精を出す。頭にタオルをかぶり、海中メガネをかけた精悍な体つきは実にたくましい。子どもや婦人は、陸揚げされたツノマタを干したり、乾燥したりそれをバーキやガシガーへ積めこみ、漁連へもっていく仕事をするのである。時には、家族総出でクリ船に乗り込み大量にツノマタを採取してくる。
 西表島におけるツノマタは、上原地区から外離島をへて綱取の沖あたりに群生しており、北・西部の人々はそこへ出かけて行く。採取されたツノマタは、漁連を経て本土(鹿児島や大阪等)ヘ、のりや寒天の材料として運ばれるのである。一日の収穫は普通10ドル弱分で、多い時には、20〜30ドル分にもなるとのこと。以前はツノマタの養殖も行なっていたらしいが、村を出ていくものが次第に多くなってきたことや、キロあたりの値段が安くなってきたのと相まって、現在では全く行われていない。
 ツノマタ採取に出かける者も年々減少の一途をたどっているとのこと。しかしポンポンとモーターの音も高らかに、ツノマタを山積みして港に向かってくるクリ舟のかじを握った男達やその家族の姿には、過疎の問題にさいなまれながらも力強く生きるんだという、静かに燃え上がる闘志がみられるのであった。

失われた道・仲良、仲間ライン

白浜→船着場→飯場小屋→白浜林道への分岐点

 仲良川と仲間川においては舟を利用し、途中の白浜林道への分岐点−御座岳−仲間川上流舟着き場間を短時間で歩き、西部の白浜と東部の大富を結ぶという構想のもとに試みたコースである。
 大富−仲間上流船着場−ゴザ岳−白浜林道への分岐点までは別の項を見ていたたくことにし、ここでは白浜から仲良川上流を通り白浜林道への分岐点までの説明にとどめることにする。
 このコースで最大の難点は、飯場小屋から分岐点までの間、途中伐採のため、道が失われているということである。この区間に道標を設置できなかったことが悔やまれるが、それは我々の今後の課題としてとっておき、途中道なき所は方角をもって表わすことにする。東部と西部をより短時間で結べるという確証は持てないが、今後の我々の活動次第によっては仲良川、仲間川での舟の旅を楽しみ、御座岳から四方の景観を楽しみながら、東部と西部とが結ばれるということも可能だと思う。
 まず、白浜港から舟に乗る。(船のチャーターのことについては当地での交通の項参照)
大河にしっかりと根をはるマングローブの群落を見、青い空と縁の山々の繰りなす見事な風景に感嘆しながら、ちょうど1時間、仲良川上流舟着場へ着く。
 このあたりは切り出された林木の集積所であり幾人かの人夫がいる。その人夫らが寝泊まりしている、粗末ではあるが所帯道具らしきものの入った小屋があり、野菜畑のまわりを鶏が自由に歩き廻っている。
 舟着場から山道を川に沿って3分程行くと小屋がある。小屋を過ぎると道は急な登りとなり、8分ほどいくと幅2mほどの道に出る。伐採用に造られた道らしく、かなりはっきりしており、あとは右へその道を辿れば30分後には飯場小屋へ着く。この道は仲間川よりかなり高い所に山の斜面をけずってつくられたものであり、小さな丸木橋のかかっているところが2カ所あり、又材木集積所などもある。右手下方には仲良川の水が岩間をぬい、岩床を這って流れるのが陽の光を受けキラッキラッと輝いている。伐採の為、このあたりは木がなく、北アの尾根道を歩いているような錯覚を覚える。
 さてここから問題の難点、道なきコースに入る。飯場小屋から傍らの小さな支流を渡ると手前に急に小高くなった所があり、そこを登るためにつくられたボロボロのハシゴがかかっている。第一の難関ハシゴ登りである。慎重にのぼらないと壊れること確実。(又、これをのぼらず右手へ行けばうるわしの滝に出る。)そこから7分、道が二手に分かれるが右手の道を進めばよい。さらに3分、左手へ折れると急な登りが8分程続く、登りつめると目の前が急に明るくなり、伐採の跡に出るが、右の方へおい繁るツタなどをかき分け、しばらく進むと道があり、3分ほどいくと再び途切れる。問題の場所はここである。ここからはコンパスを頼りにする他仕様がない。北および北北西の方角をめざして進めばよい。約1qヤブコギのあと、再び伐採の跡を発見できればしめたもの。ここから又道が始まる。それから後は木にまきつけられた青い絶縁テープが目印になる。
 40分で分岐点へ着き、至白浜林道、至御座岳、大富、至仲良の道標を見る。右手へ行
けば御座岳−仲間上流船着き場へ出る。そこからたっぷり1時間、密林の大河仲間川下りが楽しめる。なお船の件は、前もって白浜から電話で知らせれば迎えに来てくれる。連絡は大富の共同売店にするとよい。

人知らずの滝(うるわしの滝)

 こんもりと繁った木々、肌を撫でる冷気、昼間だが陽の光はさえぎられ、うす暗い。「本当に山の奥にいるのだなあ」という感慨で歩きすすむと木の間をぬって銀の糸のすだれが、目にとび込む。滝である。ここ仲良川の山深い所に、未だ知る人も少ない名もない滝が、美しい容姿をくねらせ、いつ訪れるともない人々をどかっと腰を据えて待っている。現在、西表には男性を象徴する雄大なマリユドの滝、女性を象徴する細いピナイサーラがあるがこの滝はさしずめ中性的とでも言えようかそんな魅力でどかっと腰を据えている。ひんやりとした清のしぶきを浴び、滝の水にうたれるとき、この滝のよさに必ず心をうたれるであろう。(我々はこの滝に「うるわしの清」と命名したが・・・。)
 さて、このようなすばらしい清のある仲良川上流一帯には飯場小屋が点々と散在している。伐採のために建てられたものらしく、切り出しの終わったあたりの小屋は住む人もない。丸太を利用して造られたベッドの上には、ホコリと、数不足の花札と、一合程残った酒ビンが人間の匂いを残していた。これらのものを見ていると汗にまみれて木を切り出し、小屋へ帰ってゴロゴロと横になる男どもの姿がまぶたにちらつく。「こんな山奥で・・・。」なんだかさびしさを感ずる壮景だ。
 うるわしの滝一帯はうっそうとした密林であるが、その上流と下流はかなり広い範囲にわたり伐採が進んでおり、見はらしはいいが伐採の事後処理のことが気になる。伐採の跡には、つる植物が生い茂り、今まであった道が、跡かたもないようなところがある。いったい植林は?と問いたい気持ちにかられる。このようなら滝の美しさもこわされそうだ。

内離島・外離島

内離島

 内離島へ行くには、干潮時に白浜の発電所付近から海岸に出て、白州をあるいて渡ることも可能であるが、白浜港からサバニをチャーターして行った方がよく、安全でもある。チャーターしたサバニは10分ぐらいで牧場の牛を世話しているおじきんの小屋の近くに着く。そこにしか水場(井戸)はなく、しかも、その水は少し塩辛い。小屋の近くにはテントが3張りくらい張れ、その近くの海岸では、魚がよく釣れる。
 小屋から海岸沿い北東に5分ぐらい進んで、左手のマングローブ林の中に入り、小道(幅員1m)を行くと、旧成家部落(大正初期廃村)跡がある。そこには牧舎らしき建物や、フクギなどがあって部落跡だということが一見してわかる。部落跡から、左へ牧草の生えた急な坂道をどんどん登って行くと、次第に見晴らしが良くなって行く。更に登って行くと、砲台跡が見えてくる。頂上に達すると、船浮港の瀬戸内海にも似たすばらしい景色が見え、「絶景かな。」と言いたくなる。その頂上から外離島全体がはっきり見え、船浮港には、ふつう5〜6隻位の船が停泊しているのが見える。
 今年(1971年)7月に廃村になった網取へ行く途中の、サバ崎の一番突き出た岩が、ゴリラそっくりの岩肌をむき出す。(これがゴリラ岩である)後方を振り返ると、白浜と祖納の部落が見える。頂上のすぐ手前は絶壁になっていて、牛が落ちないように柵がある。柵に沿って外離島の方へ歩いて行くと、干潮時には渡れる白州のヨニ崎に達する。外離と内離の中間あたりは潮流が速く、満潮時には水深があるので歩いて渡る事は不可能。
 干潮時になるまで待っていると、ズボンのすそをまくりあげなくても、楽に外離島へ渡ることができる。干潮の間、外離島を見てから、白洲を渡って内離島に帰ってくる。今度は海岸線をまわり、旧ナリヤ部落を通って小屋の方へ帰るとよいだろう。外離島は雨が降らない限りほとんど水場がないので、サイトしないほうがよいだろう。

外離島

 外離鳥は、西表島の西海岸、船浮、仲良の両湾に抱かれた離れ島で相棒の内離島と手を取るようにして寄り添っている。西表西海岸から見て外側にあるので、外離島といわれる。(内側にあるのが内離島である。)その南東のヨニ崎という白州によって内離島に接しており、干潮時には容易に(内離島から外離島に)歩いて渡ることができる。外離島は無人の島であるが現在は牧場として20〜30頭もの牛が放牧されている。戦時中は、内離島同様に船浮要港の要塞地帯であり、砲台跡がまだ山腹に残っているのが見られる。
 外離島の地形は、島の北西部を頂点にした三角形を成し、2段の断崖絶壁(80m程度)の高段丘に囲まれた三角錐台状をしている。中央部は標高149mで、ほぼ100〜200m位のゆるやかな丘陵を成し、断崖絶壁が海岸に迫っている。従って平坦地に乏しく、東部断層谷鞍部の堆積地(デルタ)と、南部断層峡谷に発達しているわずかな堆積地だけである。また河川と言われる程のものはなく、水源に乏しく、わずかに南部峡谷の小川のみであるが満潮になると上流50〜60mまで海水がさかのぼってくる。塩沼地にはマングローブの原生林があり、デルタには海浜植物の潅木、アダンが密生している。このデルタの近くに、牧舎跡及び石炭ボーリング調査跡がある。島の丘陵一帯は、牧草に覆われ、わずかに河川の流域又は谷あいに雑木林が繁茂している。東側入江を覗く島の周囲には、海岸から約200mにも及ぶリーフが発達している。
 外離島は、西表西部海岸と相まって天然の良港、船浮港を形成している。すなわち租納海岸と船浮との間に大港湾があり、その中間には内離島と外離島が有り、相連なつて自然の防波堤を成し、大港湾を船浮湾と仲良湾に二分している。更に外離島の東部に突出する部分と内離島で囲む入り江は水深20〜30mもあり、天然の良港を形成し、大型貨物船の出入りを許す。なお海岸からわずか20〜30mの近距離にてこの水深に到達する。